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茶入筆記 vol.5 九十九髮茄子與織田信長的本能寺之變 - Tea Caddy Notes, Tsukumonasu, Nobunaga and the Fires of Honnoji.



織田信長与本能寺  

历史背景


天正十年(1582年),織田信長幾乎奪取了以京都為中心的近畿全境,以安土城為據點,統帥著柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、明智光秀、瀧川一益等家臣,結束戰國時代和統一日本的目標即將達成。

而就在織田信長即將毫無懸念地統一日本之時,日本歷史上最匪夷所思的謎之事件竟突然降臨:天正十年六月二日,信長最信任的家臣明智光秀,在去往四國援助秀吉的路上突然叛變,改道京都包圍本能寺,信長葬身火海


▲ 織田信長 画像,天童市立旧東村山郡役所資料館提供,三宝寺 藏

▲ 天正十年(1582年)六月二日凌晨,本能寺燃起熊熊烈火,「東山御物」等、茶之湯名物數十種在大火中燒失,最為著名的是信長的「曜變天目」以及「九十九髮茄子」,而其中「九十九髮茄子」更是在廢墟中被撿出送給秀吉,然後又在大阪城中燒毀被撿出送給德川家康,現由靜嘉堂文庫美術館收藏。

由於信長準備在本能寺中開茶會,從安土城帶去大量茶道具,本能寺之炎直接導致「東山御物」等、茶之湯名物數十種在大火中隨著織田信長一並燒失…九十九髮茄子則是在這場大火後,在廢墟中被撿出;而謎團籠罩的,便是由足利將軍家傳來,記載於「君台観左右帳記」並與信長寸步不離的「曜變天目」茶碗的去向…


▲ 織田信長 像


「九十九髮茄子」


據說 付藻(つくも)是根據『伊勢物語』中的一首和歌而得名的:「百とせに一とせ足らぬ九十九髪我を戀ふらし面影に見ゆ」。 也有寫成 「九十九髪」「作物」的。 這個茶入是足利義満傳來,是被解除了大和所有土地的軍閥松永久秀贈送給信長的。 它在大阪夏之陣中被損壞,後由德川家康下令藤重藤元・藤巖父子從大阪城廢墟中撈上來,並用漆進行了修復。 經 X 光檢查發現,表面覆蓋物幾乎全部用漆修復。


付藻(つくも)は、『伊勢物語』所収の和歌「百とせに一とせ足らぬ九十九髪我を恋ふらし面影に見ゆ」から命銘されたという。「九十九髪」「作物」とも記される。足利義満からの伝来を誇るこの茶入は、戦国武将・松永久秀が信長に献上して大和一国を安堵されたエピソードを持つ。大坂夏の陣で罹災したが、大坂城址から徳川家康の命をうけた藤重藤元・藤巖父子により探し出され、漆で繕われた。精緻な漆繕いの褒美として、家康から藤元に下賜された。X線調査で、釉と見られる景色など、表面を覆う部分は、ほぼすべて漆による修復と判明している。


松永秀久


同在本能寺火光中被燒的器物,據傳還有著名的「九十九髮茄子」,也稱「付藻茄子」、「松永茄子」,來自足利義滿將軍的收藏(*室町幕府第三代將軍),由足利家傳承到第八代足利義政,1558年由「松永久秀」以一千貫買入(又一說巧取豪奪)。



1568年9月26日,織田信長擁足利義昭上洛(去京都),據說「松永久秀」在之前的芥川之戰背叛了信長,10月2日,為了換取性命和表示對信長的臣服,將「九十九髮茄子」和名刀「吉光」獻給了織田信長;而足利將軍家「君台観左右帳記」記錄之「曜變天目」,也可能在相似的情景下獻給了信長,在本能寺大火之前到了信長手裡…



九十九髮茄子」,經歷了秀吉和家康的修復、加持,並且兩度在火光中幸存,一方面展示了當時茶道以及唐物在將軍貴族心目中的至高無上的地位,另一方面也是本能寺之變茶之湯名物「幸存線索」的一個重要物證。


▲ 「九十九髮茄子」,名字來源於「百とせに一とせ足らぬ九十九髪吾を戀ふらし面影に見ゆ」,白,用百缺一來形容,就是九十九發;亦有認為是村田珠光曾經以九十九貫購買而得名 / 傳承:足利義滿 - 足利義政(東山御物) - 山名豐時 - 伊佐宗雲 - 朝倉教影金吾宗滴(五百貫)- 越前小袖屋山本久成 - 京袋屋(寄存)-松永久秀(永祿元年:一千貫 / 或 巧取豪奪)- 織田信長(永祿十一年,1568年獲贈,1582本能寺之變罹炎)- 豐臣秀吉(大阪城罹炎)-德川家康(元和元年)-藤重藤元(修復)-岩崎家(明治九年)- 靜嘉堂文庫美術館


假如「九十九髮茄子」可以在本能寺大火中幸存,並且能將幾十片的碎片找尋得很完整,可以推測,當時火後對文物作出了徹底的搜索,且是在一個嚴謹有序可控的場面下進行;

九十九髮茄子」由於經歷過兩場大火,也不難推測,在本能寺之時的損毀狀況,還要比他現在的損毀情況更輕,這也說明本能寺當時的火勢並不足以像熔爐一般把器物殆盡



付藻はまた江沢藻・江浦草・作物などの字を当てます。別名松永茄子・九十九髪。『総見記』所載の相国寺惟高和尚の記文に、「鹿苑相公(足利義満)、内野の戦場に向ふ時、金甲の裏にこれを繋けて身に随ぶ。その御愛保重せられしこと知るべし。近来、慈照相公(足利義政)これをもって呑くも山名礼部(山名政豊)に賜ふ。


その男色をもって寵幸せられしが故なり」また「逓代の大樹、十たび襲ひてこれを秘寵す。扱際たる賤輩介爾、倫眼するを得ざるなり」とあります。足利将軍の十代の代々が襲蔵したとありますので、尊氏以来義植まで足利将軍家の珍什でありました。室町時代末期の戦乱に際しこの茶入もいつしか人手に渡り、古道具屋の店頭にあったのを珠光が九十九貫で買い求め、『伊勢物語』の古歌「百年に一年足らぬ九十九髪我を恋ふらし面影に見ゆ」の意から九十九髪の銘を付けた。



九十九貫を九十九髪になぞらえ、そのつくもがみを略して単につくも茄子といいます。のち三好宗三に伝わり、さらに越前国(福井県)の朝倉太郎左衛門から同国府中の小袖屋某に伝わりましたが、戦乱の際の万一を思ってこれを京都の袋屋某に預けておき、人には1536年(天文五)の法華宗の乱で焼失したと偽って秘蔵していました。ところが1558年(永禄元)春、松永久秀が計略を用いてこれを取り出して自分のものとし、非常に喜んでしばしば茶会に使用したということが『宗及茶湯日記』にみえます。


のち1568年(永禄一一)11月に織田信長が入洛し天下の大勢が信長に帰するのをみて、久秀は仕方なくこの秘蔵の茄子を信長に献上して御機嫌をとつた。信長の没後豊臣秀吉の所有となり大阪城の宝庫に納められていましたが、1615年(元和元)の落城の際この茶器を納めてある庫も焼け落ちてしまりました。そこで本多正純は徳川家康に勧めて、藤重藤厳・同藤元父子に命じ焼跡の中から名物茶入を探し出させました。


この時この茄子も発見され、ひどく破損していたが藤重父子は丹念に漆で修繕して原形に戻し、釉の色もほとんど元の色に近いものにつくり直しました。家康はその褒美としてこの茶入と松本茄子とを藤重父子に与え、以来藤重家の秘宝でありましたが、1876年(明治九)頃に家計が苦しいため当時新興の富豪として知られた岩崎弥之助に売却し、以後同家に伝わりました。(『津田宗及茶湯日記』『天正名物記』『茶器名物集』『山上宗二記』『東山御物内別帳』『松屋日記』『総見記』『重編応仁記』『太閤記』『長闇堂記』『茶伝記録』『茶事談』『万宝全書』『大正名器鑑』)


和名「付藻茄子」(つくもなす)という中国で出来た茶入が有りましたが。日本に渡り足利義満が所有していましたが、その愛蔵ぶりは度が過ぎていて、戦場に行く時も肌身離さないで鎧びつの中に特別の収納場所を作って戦におもむくほどでしました。その後、これを茶人「珠光」が買い、「朝倉太郎左衛門」から「松永弾正」に渡り、さらに時の権力者「織田信長」の機嫌とるために弾正から信長に献上され信長が茶会にしばしば使った記録があります。


安土城から本能寺に持ち込まれて、おそらくはこの茶入を主役とした茶会が開催されたと思われますが、その終了数時間後に「明智光秀」乱入の変の合い本能寺が焼け落ちたときは、かろうじて何者かが持ち出したため、なぜか無事であったようです。変事の後、茶入は「豊臣秀吉」が所有する所となり、後に「徳川秀頼」に渡りましたが、元和元年、「徳川家康」に攻められて大阪城の宝庫と共に焼けました。家康は灰の中を探させ、いくつかの名器を探し出して見事に修復した「藤重藤元」にこの茶入を与えました。


この頃の茶入の価値感は、「石田光成」拳兵の報を受けて家康が兵を西に返した時、側近の某が今度の大阪攻めでは茶入の名品が沢山手に入りましょうから、軍功をたてたらそのうちのひとつを拝領したい、と申し出たという言い伝えからも、領地同様の価値観があったと思われます。


この「付藻茄子」(つくもなす)は、徳川家康よりの拝領とあって、江戸時代の間は藤重家から外には出る事もありませんでしたが、明治九年四百円で岩崎家に入り、現在、静嘉堂に伝わっています。室町時代以来、動乱に世のほとんどの政治経済の実力者の寵愛をほしいままにし、歴史的戦火をかいくぐって生き残った名器であります。


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