珠光青磁是一種罕見的瓷器,『大正名器鑑』中僅收錄了加藤正義氏收藏的一隻碗。 據說,珠光青磁這一名稱源於日本茶祖村田珠光對這種碗的喜愛,因為他認為與技藝更綺麗的砧青磁相比,這種枯淡的青瓷更適合茶。 在桃山時代,這些碗被稱為 「珠光茶碗」,但不清楚它們何時被稱為 「珠光青瓷」。
珠光青磁據說是南宋時期在福建同安製作的。 在許多鐮倉時代的考古遺址中發現的珠光青瓷也說明珠光青瓷是南宋時期的產物。 茶碗不確定,但在佐賀縣和福岡縣出土過相同類型的青瓷小盤。 在福岡縣的各個鐮倉時代遺址和廣島縣福山蘆田川的草戸千軒遺址中也發現了小盤子的碎片,在鐮倉海岸也採集到了小盤子的碎片。
長期以來,珠光青瓷的產地一直是個問題。 戰前,米內山庸夫氏先生於昭和初期(1926-1989 年)在浙江省德清縣收集到了珠光青瓷碎片,由此推斷這些碎片是在德清窯燒制的,但這是個錯誤。 1952 年 6 月,福建省文物管理委員會對同安窯進行了調查,1956 年,故宮博物院陳萬里及其團隊也對同安窯進行了調查,並在《文物參考資料》(1957 年第 9 版)中以 「調査閥南古代窯址小記」」為題發表了調查結果。
這是我們第一次知道珠光青磁產於福建同安。 我們還知道泉州碗窯郷出土了幾乎一模一樣的器物,而流傳到日本的器物是我們希望能夠找到的。 至於這七種青瓷中的哪一種是在哪個地方燒制的,這將是一個未來的問題。
珠光青瓷是基底是灰白色的瓷器,上面覆蓋著一層相對較厚的透明釉,這種釉經常被氧化成枇杷色。 珠光之所以選擇這只碗而不是砧青磁,可能就是因為它氧化後溫暖柔和的枇杷色。 例如,京都銀閣寺藏有珠光青磁茶碗、銘「四海兄弟」,但珠光青磁與人形手青磁一樣,都是青中帶黃的氧化枇杷色為特徵。
珠光青磁的另一個特點是釉下划花,俗稱 「貓抓痕」,是用櫛梳按壓或抓撓造成的。 小山富士夫認為這種圖案在龍泉類型的浙江青瓷上是看不到的,似乎只在泉州附近的福建省流行。實際上,浙江省龍泉的金村便有這樣的裝飾,應該是說這類裝飾比較流行於北宋,而不是南宋。
這件珠光青磁茶碗來自京都的本願寺,胎體堅實,呈灰白色,表面施透明釉,略帶枇杷色。
它是一個扁碗,碗口寬大,碗身豐滿,碗底小而緊實。 外壁有貓爪紋,俗稱梳頭紋,內壁三面刻有自由灑脫的雲紋,碗口和碗底有輕微磨損,但已接近完好。(小山冨士夫)
村田珠光 心之文
《心之文》是村田珠光寫給弟子古市播磨法師的一封信,在茶道史中具有重要的地位。
古市播磨法師
珠光
此道、第一わろき事ハ、心のかまんかしやう地、こふ者をはそねミ、初心の者をハ見くたす事、一段無躰事共地、こふしやにハちかつきて一言をもなけき、又初心の物をはいかにもそたつへき事地、此道の一大事ハ、和漢えさかいをまきらかす事、肝要肝要、ようしんあるへき事地、又、当時ひゑかる、と申して、初心の人躰か、ひせん物しからき物なとをもちて、人もゆるさぬたけくらむ事、言語道断地、 かる、と公事ハよき道具をもち、其あちわひをよくしりて、心の下地によりてたけくらミて、後まて、ひへやせてこそ面白くあるへき地、又さハあれ共、一向かなハぬ人躰ハ、道具にハからかふへからす候地、いか様のてとり風情にても、なけ所肝要にて候、た、かまんかしゃうかわるき事にて候、又ハ、かまんなくてもならぬ道世、銘道ニいわく、心の師とハなれ、心を師とせされ、と古人もいわれし地
全文翻译如下:
心之文
此道最應忌諱的就是傲慢與貪婪、嫉妒高明者、蔑視初學者之心。茶人本應去接近高明者,向其求教,照料初學者,對其進行培養教育。
而且此道中最重要的就是要去除「漢」與「和」之界線,做到漢和融合,這一點必須銘記於心。
最近,提到「冷枯」之美,初學者總是拿著備前、信樂燒,擺出一副名人皺眉鑒賞的姿態,真是豈有此理。所謂枯淡之境界,亦是由循序漸進而來:得到好的器具,應首先好好去體會、玩味,根據自己的能力而創造出一個適當的境界來,一步一步做下去,在境界上不斷深入; 得不到好的器具的人,索性就不要拘泥於器具才好,如何養成欣賞藝術品的眼力最為重要。
即使已經相當成熟,也要保持向人求教的心態,這非常重要。傲慢與貪婪之心是最大的絆腳石,但自信也是不可或缺的。古人所雲「為心師,不師於心」可做此道之至理名言。要茶人做心的導師,而不要讓自大傲慢之心成為自己導師。
此非古人之言。
珠光
「心之文」對茶道的影響極為深遠,頗有範仲淹「不以物喜,不以己悲」的味道。村田珠光隨後也對飲茶的道具和茶室都進行了改革:提倡使用素樸的茶具,並在面積很小的茶室里喝茶。
「珠光青磁」,這個原本默默無聞的宋瓷品種,也因珠光的思想而得以被世代珍惜,這也是「心之文」思想留下的一個審美例證。
▲ 「珠光青磁茶碗」南宋 同安窯系 本願寺傳來 / 出光美術館 藏
▲ 「珠光青磁茶碗」南宋 同安窯系 銘 遅桜 / 根津美術館 藏
珠光青磁は、遺品の数の少ないもので、『大正名器鑑』にも、加藤正義氏所蔵のものが、一碗録されているだけです。珠光青磁という名称は、茶祖の村田珠光が、上手で、きれいな砧青磁よりは、下手で、枯淡なこの類の青磁のほうが、茶には適すると思い、この類の茶碗を愛したところから、起こったと伝えられています。桃山時代には、珠光茶碗と呼んでいましたが、これを、いつ珠光青磁と呼ぷようになったかということは、はっきりとしません。江戸時代になってからでしょうが、江戸時代のいつごろからでしょうか。
珠光青磁は、南宋時代、福建省の同安で作られたものどされています。珠光青磁が、南宋時代のものであることは、それが鎌倉時代の遺跡から、かなり発見されることによっても明らかです。茶碗が発見された例は知りませんが、同じ手の青磁の小皿は、佐賀県からも、福岡県からも出土しています。また小皿の破片は、福岡県下、各地の鎌倉時代の遺跡や、広島県福山市芦田川の草戸千軒の遺跡から、相当発見されていますし、また鎌倉海岸でも、かなり採集されています。
珠光青磁が、どこで作られたかというととは、久しく疑問とされていました。戦前は、米内山庸夫氏が昭和の初め、浙江省徳清県で、珠光青磁片を採集されていますので、徳清窯ではないかと想像したこともありますが、これは誤りでした。同安窯は、1952年6月、福建省文物管理委員会が調査し、ついで1956年には、故宮博物院の陳万里氏たちが調査し、『文物参考資料』(1957年第9期)に、「調査閥南古代窯址小記」と題して発表しています。
これによって、われわれは珠光青磁が、福建省の同安で作られたものであることを、はじめて知りました。また泉州の碗窯郷でも、ほぼ同じようなものが作られており、わが国に渡っているものがヽこのうちヽ。どちらで作られた七のであるかは、今後の問題です。
珠光青磁は、。青磁といっても、素地は灰白の磁胎ですが、これに透明性の釉薬が、比較的に厚くかかり、酸化して、枇杷色になっているものが多いです。珠光が、砧青磁よりこの茶碗を選んだのも、酸化して、暖かい、柔らかな枇杷色をしているからではないでしょうか。たとえば、京都の銀閣寺にある、珠光青磁茶碗、銘「四海兄弟」のよう青磁をまれにはありますが、珠光青磁は人形手青磁と同じように、青みを帯びた、珠光に、酸化して、枇杷色を呈しているのが、その特徴とされています。
珠光青磁はまた、俗に猫掻きと呼んでいる、櫛で押したり、ひっかいた刻紋が釉下にあるのが、その一つの特徴とされています。これは竜泉系の浙江省青磁には見ない文様で泉州付近の、福建省だけに流行した紋様のようです。
この珠光青磁茶碗は、京都の本願寺に伝来したもので、素地は、灰白色をした堅い磁質です。これに、透明性の、うっすらと枇杷色をした釉薬がかかり、腰以下は露胎です。
口が広く、胴がふっくらと張り、小さい、締まった高台の付いた、平たい茶碗です。作りは厚く、外側には、櫛でひっかいた、俗にいう猫掻き紋があり、内面三方に、自由で、のびのびとした線で雲形を刻し、その中に櫛めを、じぐざぐに押した紋様を刻してあります。
口辺と高台に、わずかのすれがありますが、完好に近く、珠光青磁としては形も端正ですし、紋様も整い、焼成も上々の、すぐれた茶碗です。
(小山冨士夫)
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