又名「住吉肩衝」:高二寸九分八厘(9.0cm)、胴径二寸七分二厘(8.2cm)、口径一寸四分五厘(4.3cm)、底径一寸五分五厘(4.6cm)、甑高三分強(1.0cm)。肩幅五分(1.5 cm)、重量四十三匁(161.3g)
住吉屋山岡宗無~佐竹義宣~佐竹義隆~柳営御物~佐竹義隆~佐竹義処~徳川家綱~尾張中納言。徳川美術館蔵。
仕覆:茶地角竜金襴、納戸地丸龍緞子。
蓋一枚。
挽家、花梨。
内箱、桐白木。
外箱、黒塗。
御物袋、白縮緬。
這個茶入曾歸於堺的茶人住吉屋(すみよしや)山岡宗無(1534~1612),並以他的名字命名。 雖然它是一個大型肩衝茶入,但通體做得很薄,手感輕盈。 從室町時代晚期到江戶時代早期,像這樣的大型肩衝都非常珍貴。
這個茶盒是久保田藩初代佐竹義宣(よしのぶ/1570~1633))的遺物,由其次子2代義隆(よしたか)作為禮物贈送給第三代將軍德川家光,德川家光繼位後首次獲准返回日本時將其歸還給了義隆。 後來,它被贈送給第四代將軍德川家綱,後者又將其傳給了第五代將軍德川綱吉,後者於 寶永6年(1709)去世,並將其遺贈給了尾張德川家的第四代家主吉通。 就這樣,著名的茶道用具成為了諸侯重要場合的禮物。
來歷
永禄七年十二月八日朝 住吉屋宗無會 宗達 宗久 爐じやうはり 細くさり 床 かたつき 右壺は面なだれ二筋あり、一筋は中程まであり、一筋は底まであり、かけ出候、藥面のかたより出候、なだれの露先通りてゆがみとなり、裾細そにあり、地藥黑み候か、口の外へは上藥かゝらず上藥黑くあり、惣じて土あらく、惣ての地藥の心ある也
天正十二年十一月十七日晝 名護屋にて 住吉屋宗無御會 宗湛 一人 三疊敷の内、一疊は上段にして、一枚障子くゞり無し云々。つり棚には肩衝、袋に入れて云々。 肩衝は藥黑く濃くかゝる、土青めに黑く、口付の筋一つ、藥くゝみてかゝる、土の間一二分程なだれ無し、そゞろ高也。袋はケウロク純子、緒あさぎ、形に委あり、底はつくりかけ也
文禄二年正月十七日晝 なごやにて 宗無御會 宗湛 一人 肩衝は口筋一つ、高大にして胴張る、藥濃く黑し、土の間二三分、底つくりかけ、蓋新なり、つくは柿のへた也、袋は純子小紋から草也、緒つながり紫也
佐竹義宣
その後、出羽久保田藩(秋田藩)主の佐竹義宣(義重の子)の所持となっている。 宗む肩つき 佐竹佐理殿宗無大名物 佐竹修理大夫殿
佐竹義隆
佐竹義宣の死後、佐竹義隆(佐竹義重の三男・岩城貞隆の長男)が跡を継ぎ出羽久保田藩2代藩主となる。寛永10年(1633年)2月26日に襲封を謝して挨拶の時に、養父・義宣の遺物として住吉肩衝の茶入、籠の花入、長光の刀を献上している。
堺の茶人・住吉屋(すみよしや)山岡宗無(1534~1612)が所持していた茶入で、銘もそれにちなむ。大型の肩衝茶入ながら、全体が薄造りとなっており、手取りは軽い。室町時代後期から江戸時代初期には、本品のような大型の肩衝が特に尊重された。
圖片提供:Genny
本茶入は、久保田藩初代佐竹義宣(よしのぶ/1570~1633)の遺品として、家督相続の御礼に同2代義隆(よしたか)が3代将軍徳川家光に献上しており、再び義隆が相続後の初帰国の許可を得た際に返された。のち4代将軍徳川家綱に献上され、家綱から5代将軍徳川綱吉に伝えられ、宝永6年(1709)に歿した綱吉の遺品分けで、尾張徳川家4代吉通が拝領した。このように名物茶の湯道具は、大名にとって重要な場面での贈答品であった。
大名物。漢作肩衝茶入。住吉屋山岡宗無の所持であったことからまた住吉肩衝の別名があります。
永禄・天正・文禄(1558-96)の茶会に用いられました。
大疵繕いがあるが気宇雄大で桃山時代の茶入にふさわしいものであります。
宗無ののち佐竹義宣の有となり、幕府、佐竹家、幕府と往復し、1709年(宝永六)に尾張中納言がこれを拝領し以来尾張家に伝来。(『玩貨名物記』『古今名物類聚』『大正名器鑑』)
宗無ののち佐竹義宣の有となり、幕府、佐竹家、幕府と往復し、1709年(宝永六)に尾張中納言がこれを拝領し以来尾張家に伝来。(『玩貨名物記』『古今名物類聚』『大正名器鑑』)
唐物肩衝茶入 銘 宗無 大名物
からものかたつきちゃいれ めい そうむ
Comments