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茶入筆記 vol.6 新田肩衝:千利休盛讚第一,與楢柴肩衝、初花並稱「天下三肩衝」的漢作唐物茶入,信長·秀吉·家康 - Tea Caddy Notes, Nita Katatsuki, Nobunaga Hideyoshi & Ieyasu.



被千利休譽為「天下第一肩衝茶入」的茶壺。 1937 年 2 月 16 日,它被指定為重要藝術品。新田肩衝(にったかたつき)是與楢柴肩衝・初花並稱「天下三肩衝」的其中一件肩衝。

大名物 漢作

新田肩衝茶入


【付属物】蓋 仕覆三段織緞子・紺地小牡丹菱紋金襴茶地剣先梅鉢紋緞子(図版右より) 挽家 黒塗 金粉文字


【伝来】 村田珠光 三好宗三 織田信長―大友宗麟 豊臣秀吉 徳川家康 徳川頼房(水戸家)


【寸法】 高さ:8.6 口径:4.5 胴径:7.9 底径:4.6 重さ:116


* 另一說:陶製、高さ8.5cm、口径4.5cm、胴径7.7cm、底径4.5cm、重さ120g。


與初花相比,它的胎體更緊實,整個胎體呈圓形,肩部有撫肩。據說,它最初的釉色為海松色,但由於在大阪之戰中受損,如今的外觀呈黑褐色光澤。該茶具是水戶德川家的陶製茶入,自古以來就以 「大名物」而聞名,據推測製作於中國南宋或元代。 被認定為重要藝術品。

從珠光傳到三好宗三,後為織田信長所擁有。


本能寺之變後,它傳給了大友宗麟,然後又傳給了豐臣秀吉。 大阪城陷落後,受德川家康之命的漆器工匠藤重藤元・藤厳父子發現了新田的碎片,並用漆將其修復,然後將其獻給了家康,使其暫時成為德川家族的財產。 德川家康將新田交給了他的第十一個兒子、水戶德川家的創始人德川賴房,從此新田就一直屬於水戶德川家。 現在它歸德川博物館所有。珠光以前的所持者的來源並不清楚。 歷史學家桑桑田忠親提出了一種理論,認為可能來自新田義貞。



由於輓家蓋上標有 「にった」字樣,因此該茶入似乎曾為新田氏所持有。 在『萬寶全書』中,它被稱為仁田肩衝。 有一本書提到它為新田義貞所持,但這一點值得懷疑。『真書き太閤記』也說它被當作 「新田 」來讀。 它通過珠光、明智光秀、豊臣秀吉傳到水戶家族。


『山上宗二記』記載:「此壺肩衝ノ天下一ナリ。初花·柴と共に天下に三名物ノ一ナリ」 "此肩衝茶入天下第一。 它與初花和楢柴肩衝並稱為世界三大名物",可見其在當時的珍貴程度。 1585 年(天正 13 年),秀吉在文庫的大友宗麟中得到了它,並以 100 貫的價格購買了一個 「似茄子」茶入。 此後,秀吉在正親町天皇獻茶·山裡茶會·北野大茶湯等場合經常使用,利休也借來在百會使用。 茶入是典型的唐物肩衝,壺嘴的高度也很合適。 釉面邊緣鮮明,陶器上的 「本糸切 」清晰可見。



關於 村田珠光:




千利休から「天下一の肩衝茶入」と賞された茶入。昭和12年2月16日に重要美術品指定を受けた。


新田肩衝(にったかたつき)は、楢柴肩衝・初花と並んで天下三肩衝と呼ばれた茶入の一つである。


初花に比べ胴が張っているため全体に丸みを帯びており、撫肩である。当初は海松色の釉薬が掛かっていたとされているが、大坂の陣で被災したため今日の姿は光沢のある黒褐色となった。 水戸徳川家伝来の陶製茶入であり、古来「大名物」として名高い茶入で、中国の南宋または元時代の作と推定される。重要美術品認定。


珠光から三好宗三へ渡り、のちに織田信長の所持となった。本能寺の変後、大友宗麟を経て豊臣秀吉の所持となり、大坂城落城後、徳川家康の命を受けた塗師の藤重藤元・藤厳父子が被災した新田の欠片を探し出し漆で継ぎ修復して家康に献上、一時徳川宗家所有となる。家康は自身の十一男で水戸徳川家の祖となる徳川頼房に新田を与え、以後水戸徳川家に伝わった。現在徳川ミュージアム所蔵。 珠光以前の所持者と銘の由来ははっきりしていない。歴史家の桑田忠親は銘について、新田義貞が所持していたことに由来するのではないか、という説を唱えている。


挽家の蓋に「にった」とあるようで、新田氏の所持だったのでしょう。『万宝全書』には仁田肩衝とあります。ある本に新田義貞所持とあるがこれは疑わしいです。また『真書き太閤記』は「しんでんと読む」と述べています。珠光、明智光秀、豊臣秀吉らを経て水戸家に人りました。


漢作唐物肩衝茶入。大名物。「新田」とは所持者の名と思われますが、いかなる人物か明らかではありません。家には「1つた」とあり、また『万宝全書』には「仁田、新田共有」と記されています。その他はいずれも「新田」で、『山上宗二記』には「此壺肩衝ノ天下一ナリ。初花·柴と共に天下に三名物ノ一ナリ」とあり、当時の珍重振りがうかがわれます。豊後の大友宗麟所持の際、天正十三年(1585)秀吉がこれを所望し、「新田肩衝」唐物茄子茶入 「似茄子」を百貫で買いました。その後、秀吉は正親町天皇献茶·山里茶会·北野大茶湯などとたびたびこれを使用し、利休も借りて百会に用いています。茶人は典型的な唐物肩衝で、口造りは正しくは高いです。にたりなす「初花肩衝」 「北野肩衝」よりやや胴のふくらみが大きく、撫肩です。釉際が鮮やかに一線を画し、土見で本糸切が明瞭に現われています。総体に、光沢ある釉色にみえますが、この茶人は大阪城落城ののち、藤重藤元·藤厳父子が家康の命を受け、灰燼中から拾い上げ、その破損を修補して今日の姿をなしたわけで、もとの釉質に調和し見事に復元しています。



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