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茶入筆記 vol.4 遲櫻肩衝 — 東山御物、大名物、初花肩衝的姊妹篇 - Tea Caddy Notes, Osozakura Katatsuki: おそざくらかたつき 遅桜肩衝



從初花到遲櫻,足利義政東山殿這對肩衝充分展示了東山的浪漫,從初春的第一朵花,到暮春的最後一朵櫻花,都歸銀閣寺東山殿慈照院之名下,何等愜意。


大名物 漢作肩衝茶入 おそざくらかたつき 遅桜肩衝


【付属物】蓋 仕覆―二、浅葱地鳳凰丸紋緞子・縞間道(図版右より) 仕覆箱—桐白木書付 挽家―黒塗、貼紙書付 挽家仕覆―大牡丹緞子 内箱-桐白木書付 外箱 黒塗、金粉文字


【伝来】 足利義政 篠原宗久 — 藤堂高虎 — 蒲生忠郷 — 柳営御物 — 姫路酒井忠明 — 酒井忠広 — 徳川家光 — 甲府徳松君 — 柳営御物 — 三井家


【寸法】 高さ:9.0 口径:4.9 底径:4.1~4.3 重さ:145


三井記念美術館 藏



銘遅桜,對應的是便是「初花」。


它原本出自足利義政之手,如果在初花肩衝之前,這件作品可能會被認為是天下第一,但由於初花已經被認為是天下第一,所以由義政根據『金葉集』中的詩句「夏山の青葉まじりのおそ桜初花よりもめづらしきかな」 「豈比夏山青葉初櫻更難忘 」之意題寫。 據說遲櫻是義政根據這首和歌起的名字。


它不像初花那樣鮮艷,有些陰鬱,但卻有一種不似繁花似錦的高貴。據說在景色不清晰的時候,會有一些不盡如人意的感覺。


左:初花肩衝 ; 右: 遲櫻肩衝


『大正名器鑑』紀錄之傳承:足利義攷、京篠屋宗久(天正頃)、藤堂高虎(元和頃)、松平下野守忠郷(蒲生氏郷の孫、寛永初期)、徳川幕府(忠郷沒後)、姫路城主松平下総守忠明、幕府(忠明沒後)、甲府徳松君(1851、慶安四年)、幕府(1699、元祿二一年)、以來徳川宗家伝來。


天正年間,此壺為堺商人篠原宗久所有,當時津田宗及對其進行了評論:"這不是一個好茶入(天王寺屋會記),可能是因為釉面的景色平淡無奇,有些壓抑。


後來,在元和年間(1615~24),它成為藤堂高虎的財產,並在寬永時代初期傳給了松平下野守忠郷(蒲生氏郷之孫、蒲生忠郷)。它於 寛永四年(1627)進入幕府,曾兩度被轉入幕府又轉出幕府,但在元祿十二年成為柳営寶蔵,並作為「初花肩衝」的姊妹器物而備受重視。


後來,它被井小柴庵所擁有,並裝飾在他的茶席上。該茶入的甑、肩都具有 漢作肩衝的雄偉外觀,底部的凸起也調整得非常好。釉面景觀沒有「初花肩衝」的秀麗,但釉色也不那麼樸素,紫地上飄著黑釉,但黑釉以衝形斜流到托盤上,極為美觀。



銘の遅桜は初花に対してであります。もと足利義政のもとにあり、初花肩衝より以前の名器選挙であればおそらくこの茶人が世上第一と唱えられたでしょうが、すでに初花が第一とされたあとでしたので、『金葉集』の%「夏山の青葉まじりのおそ桜初花よりもめづらしきかな」の歌意に因んで義政が銘じたということであります。初花のように晴れやかではなくいささか陰僻な感じがないでもありませんが、華美でないところにかえって高尚な品位があるといえます。とかく景色が判明でないのはいささか物足らぬ心地がすると評されています。伝来は次の通り。足利義攷、京篠屋宗久(天正頃)、藤堂高虎(元和頃)、松平下野守忠郷(蒲生氏郷の孫、寛永初期)、徳川幕府(忠郷没後)、姫路城主松平下総守忠明、幕府(忠明没後)、甲府徳松君(1851、慶安四年)、幕府(1699、元禄二一年)、以来徳川宗家に伝来。(『大正名器鑑』)


天正の頃、堺の町人篠原宗久が所持し、その折に津田宗及がこれを見分し、よい壺ではないと評している(天王寺屋会記)が、釉景が地味で、どことなく陰欝な感じがしたためでしょう。その後、元和年間(1615~24)、藤堂高虎の有となり、寛永のはじめ松平下野守忠郷(蒲生氏郷の孫、蒲生忠郷)に伝わりました。寛永四年(1627)幕府に入り、二度の出入をみましたが、元禄十二年より柳営の宝蔵となり、「初花肩衝」の姉妹として珍 重さ:れていたものです。後年、三こしき井小柴庵の手に入り、その茶会の席を飾りました。茶入は甑·肩とも堂々として漢作肩衝の偉容を誇り、底の板起しもおさまりがよいです。釉景は「初花肩衝」のような派手さはありませんが、総体に紫地に黒飴釉が漂い地味ではありますが、置形には黒飴釉が斜めに流れて盆付にまで達し、すこぶる美しいです


回顧初花:



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