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茶人筆記 vol.3 井伊直弼 x 宮王肩衝茶入:一期一會、獨座觀念,最堅韌的茶人 - ii Naosuke, the of Philosophy of a Tea Master.


井伊直弼

文化十二年—万延元年

1815年—1860年


幕末的大名茶人,近江彦根第十三代藩主。官至大老(幕府官职,地位在老中之上,是临时性的最高职位,辅佐将军管理政务)。


号有「宗觀、无根水、澍露軒」等。井伊直弼出生于彦根城「摫御殿」,由于将由家里的哥哥承袭家位,作为家里的第十四子,年轻的直弼主动搬到了北侧名为「埋木舍」的屋子中,在那里度过了大约十五年的时间


▲ 埋木舍,澍露軒 茶室,哪怕自己是一根被埋在土中的木柴,井伊直弼也决心一如既往的修炼自己,十五年如一日,直弼在丰富充实的自我沉淀中静静生长


埋木舍中,直弼每日早上六点至下午两点学习禅、茶道、国学、和歌、剑术等等,此外还在内院建了乐烧窑,沉迷制陶。将其中一间房间改建成茶室,取名澍露軒,他想要在石州流门下开创一个新的流派,为此专门撰写了「入門記」



嘉永三年(1850年)承袭藩主之位,开始和家臣以及菩提寺的僧侣们一同举办茶会。后来将在彦根参加的茶会记录在彦根水屋帐中,将在江户藩邸参加的茶会记录在东都水屋帐中,共计45次。此外还有「每会水屋帐」、「顺会水屋帐」、「怀石附」等收录井伊直弼举办的茶会的书籍。


据这些记录,自嘉永三年开始,直至因樱田门外之变被刺杀身亡的万延元年,这将近十年的时间内,井伊直弼举办的茶会竟有200次以上


「宮王肩衝」

室町幕府8代将軍足利義政旧蔵大名物


『古名物記』のほか『東山御物内別帳』『玩貨名物記』『古今名物類聚』『万宝全書』など諸名物記に記載されています。


【付属物】大部分配件在关东大地震中遗失,现在被装在一个带有侧插盖的盒子里。関東大震災のため付属品の大半は失われ、現在横差込蓋の箱に納められています。


【伝来】朝倉九郎左衛門 ― 宮王大夫 ― 宮内卿法印 ― 豊臣秀吉 ― 徳川家康 ― 井伊掃部頭直孝 ― 井伊家


【寸法】 高9.6 口径4.6cm


【所蔵】彥根城博物館


大名物。漢作肩衝茶入。


口造りの捻り返しは両削ぎで刃先鋭く、甑下が張り、その周囲に不規則に黒筋が二本廻り、一本は浮筋であります。


肩際は少し面取り、胴が張り、沈筋一線が茶入半分を廻ります。


総体に薄紫地に黒飴釉が掛かり、中に少し茶味を帯び、釉溜まりに青瑠璃色の景色があります。


置形の一なだれは、肩下双方から起こって胴紐下で一筋に合わし盆付際に至って止まります。


釉溜まりは厚く青瑠璃釉が特に麗しく現れています。



相好円満で品位が高く、地色は紫に茶味を帯び、その色が冴え冴えとしているので黒飴釉の景色が分明に現れ、黄釉および青瑠璃釉ともに光沢が麗しく、全部無疵で十分大名物の品位を具えた茶入であります。


もと朝倉九郎左衛門所持、のち宮王大夫に伝わり初めて宮王肩衝の名が出ました。


1583年(天正一一)宮内卿法印から豊臣秀吉に献じ、1615年(元和元)大阪落城の際徳川家康がこれを得て、井伊掃部頭直孝に授けて当時の戦功に報いました。


以来井伊家の家宝であります。


この茶入の外箱は大きい樺の柱をくりぬいたもので、高さ27cm余、縦30cm余、横約30cm、地震盗難火災除けのためにこのように重く強く大きな箱をつくったとのこと。


底色为带褐色的紫色,黑色的阿米釉清晰地显示出其绚丽的色彩,黄色的釉和蓝色的青金石釉都富有光泽。


它原为朝倉九郎左衛門所有,后来传给了宮王大夫。


1583 年,宮内卿法印将其赠送给丰臣秀吉。1615 年,大阪陷落时,德川家康得到了它,并将其赠送给井伊掃部頭直孝,以奖励他当时的战功。


此后,它一直是井伊家的传家宝。


这个茶盒的外盒由一根大桦木柱子掏空而成,高 27 厘米,长 30 厘米,宽约 30 厘米。



(『東山御物内別帳』『玩貨名物記』『古名物記』『万宝全書』『寛政重修諸家譜』『大正名器鑑』)



「鶴首茶入」

鶴首茶入 1口 高8.0 口径3.0cm 中国・宋時代 井伊家伝来資料


丸く膨らんだ胴に、まっすぐに立ち上がる頸部を持ちます。胴の下4分の1ほどに素地を残し 頸部上辺と胴の釉際に彫り筋がめぐり、黒褐色の釉薬には鶉(うずら)の羽毛のような斑文様が生じています。


頸部には後世の漆接ぎが見られ、大切に使用されてきた歴史を物語ります。白地織文緞子仕覆、萌葱地笹竜胆文金襴仕覆が付属します。


「天目茶碗」

禾目天目茶碗 1口 高6.1 口径12.8cm 中国・宋時代 井伊家伝来資料


中国・福建省の建窯製。朝顔形に大きく開いた口縁には銀の覆輪がめぐり、高台はドーナツ形に削り出す輪高台で、黒褐色の硬い素地に粘性の高い黒釉がかかっています。


黒釉中の鉄分が焼成時に溶け出して釉薬の流下とともに筋状に現れており、この筋を稲や麦の穂先に見立てて「禾目」と呼びました。天目茶碗は、室町時代から唐物茶碗として珍重され、茶碗に現れた文様により、耀変(ようへん)、油滴(ゆてき)などの種類があります。


梅花文天目茶碗 1口 高5.9 口径11.7cm 中国・宋時代 井伊家伝来資料


中国・江西省の吉州窯(きっしゅうよう)製。天目茶碗としては浅く、高台から口縁にかけての広がりが小さいつくりです。いくぶん薄手で、褐色の素地に黒釉と灰釉を重ねてかけています。黒釉の上に、煎紙(せんし)と呼ばれる梅形の切り紙を置き、その上から灰釉を重ねて焼成することで、2種の釉薬の重なりによる鼈甲(べっこう)色の釉(玳皮釉(たいひゆう))の地に梅花文が黒く残る技法を用います


「茶壺」


褐釉四耳壺(呂宋壺) 1口 高38.5 口径11.7cm 中国・明時代 井伊家伝来資料


肩に四つ耳を取り付け、頸部の周囲に二重筋を彫ります。下3分の1ほどは茶褐色の素地を残し、褐色と黒色の入り交じる釉薬を薄く重ねてかけています。底部に永井直勝(ながいなおかつ)(1563~1625)や毛利秀元(もうりひでもと)(1579~1650)らの花押があり、伝来をうかがうことができます。


この種の壺は、明時代に中国南部で制作された日用品と考えられ、日本輸出の経路にあたるフィリピン・ルソン島の名をとって「呂宋壺」と呼ばれました。日本将来後は茶壺として利用されて珍重されました。


「茶杓」

竹茶杓 銘山時雨 1本 小堀政尹作 茶杓長18.0 筒長20.7cm 江戸時代 井伊家伝来資料


黒点や黒ずみの生じた竹を用いて薄手に作り、共筒には「山時雨」の銘を記します。小堀政尹(こぼりまさただ)(1625~1694)は、江戸時代初期に幕府作事奉行を勤め、茶人として3代将軍徳川家光に仕えた小堀遠州政一(こぼりえんしゅうまさかず)の子で 通称権十郎、蓬雪と号しました。


▲ 桜田門外,皇居。

▲ 桜田門外の変,电影画面。

▲ 井伊直弼,铜像。


直弼除了挂轴和茶勺外,还让匠人制作了适合自己风格的茶道具。例如用将军御赐的竹子做了花入「千岁之始」(七本之内),按直弼的草图制作的「涟风吕」、「栗山桶水指」、「鹤龟绘茶碗」(清水六兵卫),以及匹配到各月的「十二月茶枣」(中村宗哲)等等。



直弼在举办这200多次茶会的空隙间,还抽空制定了茶道的传授体系,教授家臣茶道,执笔茶湯一會集。以茶会和点前的实践为基础,将茶道归纳为一期一會獨座觀念,使茶道具备了浓厚的哲学色彩。


「一期一會」



「茶汤一会集」序言中的「一期一会」和「独座观念」两章分别在书中的开头和结尾。这是一本详细记录茶会中「前礼、茶事、后礼」的具体作法的茶道实操书。


茶道可谓「一期一会」是也,须知今日结束后便是一去不返。此时可为自己点一碗茶细细品味,感受一期一会的真谛;能够与之交谈的,别无他物,唯有茶釜,须仔细体会时下寂寞的心情,这是十分难以悟到的境界…


▲ 阿弥陀堂釜,与次郎 作


由此段可见,书中用简明的语言记载着直弼的所思所想,堪称近世茶书的压轴之作。 井伊直弼影响着之后乃至当下的所有的茶人,「一期一會」让井伊直弼成为了「最熟悉的陌生人」。


怀着每一次的相遇都是无法复制的心情,却又绝对要求精确与茶道中的仪式感…井伊直弼就像是一个同时拥有两个人格的人,在理性和悲悯之间踱步;他虽然看似只关心武士阶层的精神提升,但其澎湃的精神世界却仿佛那个在埋木舍中默默生长的木头,于无声处牵动着每一个后世的茶人

井伊直弼的一生无疑是极具启发性的,但他也同时是如此地悲情、凄美的存在;从无声的木头到苍茂的松林,井伊直弼没有为世人留下任何言语上的答案,只有「孤獨的茶釜」和松风鸣咏于浮沉之中…



「茶汤一会集」(草稿本) 基本可以推断最初的草稿是在嘉永元年(1848年 )以前书写完成的。之后才加上了序言,最终定稿应该是在安政5年(1858年)。


「独座觀念」



独座觀念一语出井伊直弼的著作「茶湯一會集」。「独坐」指客人走后,独自坐在茶室里;「观念」是熟思、静思,面对孤独的茶釜一只,独坐茶室,回味此日茶事,静思此日不会重演:


茶人的心里泛起一阵茫然之情,又涌起一股充实感,此时心境矛盾又愉悦的,悲欣交集。也许味道并不重要,可能重要的是内心的余味吧…




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